べたれば

better late than never→略してべたれば。遅くてもやらないよりマシ。元ひきこもりの雑記。

結果をほめてくれる人はいても、努力をほめてくれる人はいない

はい。

タイトルのとおりなんですが、そのとおりだと思うのです。

 

今マインドセットっていう本を読んでいるのですが、なかなかにいい本だと思います。

「やればできる」とか「なせばなる」という言葉は大嫌いなのだけれど、できないことをできるようにするためにどういう風に考えればいいのかを教えてくれます。 

マインドセット「やればできる! 」の研究

マインドセット「やればできる! 」の研究

 

 

僕の考え方の根底にはどうあがいたってできないもんはできないし、なんでもやればできるなんていう根性論で片付くんなら、今すぐにだってエンパイアステートの天辺から飛び降りて空だって飛んでやるという気持ちがある。

それよりも、できることに注力してその長所をもっと伸ばせばいいじゃない。マリーアントワネットの精神で。(しかし、それを許してくれる環境というのはなかなかないのだけれど…)

 

ただこの本に書かれている「やればできる」は根性論のそれとはちょっと違っている。

やる前から「自分はどうせ〇〇だから、頑張ったってどうせ…」といった思い込みを排除して柔軟な考え方を持つことによって、失敗を恐れずに失敗から学んで前に進んでいけるようになりましょうということが書いてある。

 

ネガティブなレッテルほど強くはびこる

 私(著者)は昔、数学がものすごく得意だった。高校時代には代数で99点、幾何で99点、三角法で99点を取り、数学クラブにも所属していた。空軍の視空間能力試験で男子をしのぐ成績をあげたものだから、それから毎年、私のもとに空軍の募集要項が送られてくるようになった。

 ところがちょうどその頃、ヘルマン先生という、女子に数学はできないと信じている先生に教わるようになって、私の成績は落ち、以来ずっと数学から遠ざかっている。

  苦手のレッテルを貼るのが良くないことはだれでも知っている。けれども、その影響力の根深さはあまり認識されてない。

 たとえば、アフリカ系アメリカ人は知能が低いと思われ、女性は数学や理科が苦手とされている。このような型にはまった一般通念は、本人が気づかないうちに心の中に忍びこむらしい。

 クロード・スティールとジョシュア・アロンソンの研究によると、人種や性別のチェック欄に印をつけただけでも、心に染みついたステレオタイプが呼びさまされて、試験の成績が下がるという。自分は黒人(あるいは女性)であると意識させるようなことはすべて、黒人(あるいは女性)には苦手とされる科目の試験成績を大幅に下げてしまうのだ。しかし、ステレオタイプが喚起されなければ、黒人と白人、女性と男性の試験成績に差は生じないことが多数の研究から明らかになっている。

 

最近はあまり気にならなくなってきたけど、実のところ僕にもこのような悪しきレッテルが、冷蔵庫に貼られてはがれなくなったビックリマンシールのごとくべったりと張り付いている。

僕はADHDの診断を受けて、薬も処方されているのだけれど、なにかできないことがあるにつれて「ADHDの俺なんかどうせ…」と思ってすぐに諦めてしまう癖があった。というか、今もすぐに諦める癖はあるのだけれど少なくともADHDを言い訳にはしなくなった。

そういったネガティブなレッテルにとらわれるということは、とても意味のないことなんよね。できない理由を探すことより、どうやったらできるようになるかを考えることが大事なんよね。

だからやる前から諦めずにとりあえず努力はしてみる。それで努力してもだめならまあそれはしゃーないなと諦める。そして、この本に書かれているような「しなやかマインドセット」を持っている人はダメだった時に更になぜ失敗したのかを考えてもっと頑張るのである。

 

それでも、どうしたって頑張れなくなる時が僕にはある。

その最たる例のひとつは、人からの評価が脳裏に張り付いて離れないときだ。

どんなに努力を重ねても結局、結果がともなわなければ誰も評価をしてくれないのである。

しかし、結果や能力をほめることよりも努力をほめた方が、人はより新しく困難なことに挑戦していく傾向にあるのだという。

危険なほめ方──優秀というレッテルの落とし穴

 ほめるにあたっては生徒を2つのグループに分け、一方のグループではその子の能力をほめた。「まあ、8問正解よ。よくできたわ。頭がいいのね」といったぐあい。そう言われた子どもたちは、有能というレッテルを貼られたことになる。

  もう一方のグループでは、その子の努力をほめた。「まあ、8問正解よ。よくできたわ。頑張ったのね」といったぐあい。自分には何か優れた才能があると思わせないように、問題を解く努力をしたことだけをほめるようにした。

  グループ分けをした時点では、両グループの成績はまったく等しかった。ところが、ほめるという行為をおこなった直後から、両グループの間に差が出はじめた。懸念されたとおり、能力をほめられた生徒たち(〈能力群〉と呼ぶことにする)はたちまち、硬直マインドセットの行動を示すようになったのだ。次に取り組む問題を選ばせると、新しい問題にチャレンジするのを避けて、せっかくの学べるチャンスを逃してしまった。ボロを出して自分の能力が疑われるかもしれないことは、いっさいやりたがらなくなったのである。

  努力をほめられた生徒たち(〈努力群〉と呼ぶことにする)は、その9割が、新しい問題にチャレンジする方を選び、学べるチャンスを逃さなかった。

 

この実験の結果が示すように、努力したこと、つまりは過程をしっかりと評価してあげることによって、新たな課題へと取り組む意欲が増し、最終的にはより良い結果を生み出すことになるのだ。

僕が勉強にいまいち身が入らないのも、やはり結果しか見てもらえないからである。

努力するのが当たり前。結果が出なければ認めてもらえない。

世の中が結果至上主義に陥ることの危険性を、この実験は如実に表しているのではないだろうか。

 

この前も会社の勉強会に参加したのだけれど、「努力するのが当たり前、結果がすべて」といったようなことを言われて、なんとも釈然としない気持ちを抱えながら家路を辿ったのです。

成功以外は認めないぞというようなことを言われているような気がして、とても息苦しく感じるのです。それは学校教育だって同じで、僕が子供の頃は故意だろうが、過失だろうが間違いを犯すと烈火のごとく怒られたものです。

「なんでそんなこともできないんだ」

「みんなできているのにお前だけできないのはおかしいぞ」

だから、なるべく間違いを犯さないようにみんなと同じに見えるように、慎ましく、大人しくしていなくてはならなかったのです。そして僕は不登校になった。それ以外にも理由はたくさんあるけれど。

でも人は間違いを起こすものだし、間違いから学んで成長を繰り返していくのです。

会社の上層部の人たちは、若い人たちがなかなかチャレンジしてくれないことをなげいているのだけれど、自分たちでチャレンジしにくい環境を作り上げているのだということに気づけていないのだなあ。

ただそこを根本から変えるだけの気概は僕にはないので、別の方向で努力をしようと思います。

結局のところ、人の評価を気にしないということはとても大事なことだなあと、改めて考えさせられました。

他人が努力を認めてくれないのなら、自分がそれを認めてやるしかないのです。

だから俺すごい。マジで頑張ってる。マジイケメン。

最後の一言は余計でしたが、失敗を恐れずに努力をすることは大事ですね。

 

P.S.

この本の中にたびたびジョン・マッケンロー*1のエピソードが出てくるんだけど、彼が働いてきた数々の醜悪をことあるごとに叩いている。親でも殺されたんじゃないかってくらい叩いている。隙あらばジョン・マッケンローで、どんだけ嫌いなんだよ(笑)と、読みながら思わずにはいられなかった。ジョン・マッケンロー嫌いの方にもおすすめです。

*1:歯に衣着せぬ物言いで一世を風靡したテニス界の暴君。しかし、その才能は天下一品だった