タイトル詐欺も良いところですが、Albert Kingよろしく自分の不幸をいくら嘆いても現実は一向に好転しないのです。
残業して疲れ切って帰って来るや否や泥酔した母親が、KURE-556でも治すことができない程にさび付いたネジのように回らない呂律で、オウム真理教について熱く語ってきたところから今日の話は始まります。
というのは冗談で(熱く語ってきたのは本当)、僕はかつてあだ名がキリストだったことがある。
↑この記事を読んで思い出した。
何のことはない。
ただ髪が長くて色白でガリガリに痩せていたからだ。
僕は母子家庭ではないので、多分かの記事の人物は僕ではないのだろうけど、母子家庭でも幸せになれる人はいるだろうし、両親が健在でも不幸な人は不幸だ。
世の中を相対的に見れば僕は不幸な部類に入ると自負しているが、絶対的にはそうだとは思っていない。
両親がアル中で貯金もなくて年金ももらえなくて、親せきに金銭を援助していて、発達障害を抱えていても、恵まれてはいる方だと思う。
不満を言えばキリがないけど、音楽聴きながらブログ書いてるときとか、本読んでるときとかは幸せだなって思うし、そう思えるってことは心の底までは荒み切っていないんだなと思う。
天邪鬼でひねくれている部分もあるけど、一方でえげつないほどピュアな一面もある。
自分で言ってて恥ずかしいけど、冗談抜きに。
こんな人生を歩まざるを得ないのは間違いなく環境も影響しているけれど、それでも、こんなクソな人生でも愛おしいなって思える瞬間はある。
自己肯定感が極端に低くて自尊心もなく、自己嫌悪で忙しい夜も少なくないけれど、反面そんな自分がとても愛おしく思えたりすることもある。
だから、変わりたいと思ってても、一方で変わりたくないと思ってたりもする。
変わりたくないというか変わらないことで自我を保とうとしているというかなんというかさ。
話を冒頭の記事に戻そう。
最近、この人のブログをめっけてちょいちょい読むことがあるんだけど、下には下がいるんだなって思う。
優劣という意味合いにおいて上下を決めているわけじゃなくて、僕よりもタフな人生を送っている人なんて多分ごまんといるんだろうなって。
そういう人たちがひたむきに頑張っている姿を見ると、僕も負けてちゃいけないなという気分にさせられる。
人は下を見て安心する生き物だ。
恥ずかしながら僕もそうだ。
その理由の一つは、実社会において、自分よりも下がいるとその人がスケープゴートになってくれることが往々にしてあるからだ。
「ああ、この人よりはマシだな」
そうやって自我を保ってきた。
僕は幾度となくそれに助けられてきた。
一度いじめのターゲットになるとなかなか逃げだすことはできない。
その泥を下にいる人はかぶってくれるのである。
だから安心する。
そういった図式は子供の時からすでに出来上がっている。
そうやってみんな大人になっていく。
だから大人になってからも大体の場合それは変わらない。
そして上を見ては僻み、下を見ては安堵、あるいは嫌悪するのである。
キレイごとを言わせてもらうと今は誰をも見下さないように努めているし、なるべく人や物事に優劣をつけないように気を付けている。
でもまわりが誰かを見下しているといった雰囲気はなんとなく感じるので、その影響から人を見下しそうになることはある。
少なくとも僕の両親は人として最低限の義理と人情はあったから、本当にマシな家庭で育ったんだなって思う。
ア〇ルマヨネーズだなんてあだ名をつけられるような経験は幸いない。
そう・・・・・例えばある日、
母親に知らないオジサンのところに連れていかれて・・
おしりの穴にマヨネーズをぬられて・・・・
・・・・・くらいのヤツしか同情してもらえなかったと思う。
・・・まぁそんな話で同情を買ったところで、
結局「ア〇ルマヨネーズ」ってあだ名をつけられるんですけどね。
相対的に物事をとらえ続けていると、いつか自分が一番下の存在になった時に自我が崩壊してしまうから良くないのだけれど、なかなか他者と比較をしないということも難しいのである。
自分は自分、他人は他人と思うことができるようになれば誰かと比べる必要なんて全くの無意味だということに気づけると思うのだけれど、なかなかそれも簡単なことではないのです。
全然関係ないけどAlabama Shakesクソカッコいいよ。
おやすみ。